着物の歴史と移り変わり

着物は長い歴史の中で受け継がれ育まれてきた世界に誇れる「日本の伝統文化」です。
洋服が一般化している現代でも依然とし着物が愛され続けているのは「美しい、華やか」という理由だけではありません。
着物は日本の風習や文化にとけこみやすく四季のある日本の気候風土にも適しているからです。着物を「ファッション」としてとらえることもよいですが、歴史をたどり着物の移り変わりを学ぶ事で今までと違った着物が見えてくるのではないでしょうか。
「着物」という言葉は国際語「kimono」 として世界に通用しています。
着物は明治時代に西洋の衣服「洋服」が移入して以降、区別する為にもそれまでの衣服を着物と呼ぶようになりました。

本来「着物」とは「着る物(衣服)」という意味で「着るもの」という言葉が詰まって「着物」になったといわれています。
その着物は平安時代に着用していた「小袖」が始まりといわれています。小袖をはじめとして古代の衣服についてまとめてみました。
※小袖とは袖幅がやや狭く袖丈の短い衣服です。

縄文時代(狩猟で入手してものを身にまとうだけの簡単なワンピース状衣服)
縄文時代といわれる原始時代の衣服は防寒や肉体の保護だけの目的で衣服が用いられていたようです。衣服に装飾的な意味合いはなく狩猟で手に入れた獣や魚の皮、羽毛、木の皮などを身にまとっていただけの簡単なものだったと推測されます。
そのうち農業や畑仕事をするようになり麻などの繊維が生まれ、それらを用いた織物が作られるようになりました。

弥生時代(織った布地を身にまとうワンピース状の衣服)
弥生時代は歴史上で有名な邪馬台国を治めた卑弥呼がいた時代で中国の歴史書「魏志倭人伝」の記述から女子は貫頭衣(かんとうい)、男子は袈裟衣(けさい)を身に着けていました。この形態の衣服は東南アジアの稲作民族などが現在も使用しています。
また、卑弥呼など身分の高い人物は絹を用いた衣服を着ていたようです。
弥生時代には居坐織(いざりばた)などの原始的な機織りや紫草や藍などから取った食物染料を使った染めも行われていたようです。

古墳時代(布を裁断し縫った着物に似た左前の上下の衣服)
古墳時代になると大和朝廷により大陸との交流も盛んになり中国など他国の影響があったようです。女子は中国の模倣と思われる「筒袖(つつそで)」の打ちあわせした上下に、スカートのようなもので韓国のチマチョゴリに似た衣裳(きぬも)を着て、男子は同じく筒袖の打ちあわせした上下にズボン状のものを足結(あゆい)といって膝辺りを紐で縛った絹褌(きぬばかま)を着用していたと言われています。
このような服装は中国西方の胡族と呼ばれる遊牧騎馬民族の服装が中国・朝鮮半島を経て伝えられたと考えられます。
また、この時代では男子、女子ともに打ち合わせは現在とは逆で「左前」であったようです。これらのことは埴輪(はにわ)からも知ることができます。
この時代には養蚕(ようさん)も盛んになったようです。

飛鳥・奈良時代(着物に似た右前の衣服)
飛鳥・奈良時代には遣隋使(けんずいし)や遣唐使(けんとうし)などにより多くの分野で中国の隆盛期のものが取り入れられました。
飛鳥時代には聖徳太子が官吏の位を冠位十二階と呼ばれる冠と服の色や形で区分して体系化し日本初の制服制度を制定。また、奈良時代には礼服(らいふく)、朝服(ちょうふく)、制服(せいふく)を位により服装を三分類する三公服が制定されました。

衣服では衿を立てたコート状のもので袍(ほう)形式といわれるものが支配者階級の服装(朝服)として男子は衣に袴、女子は衣に裙(も)というものを着ていたようです。
また褶(ひらみ)というものを裳や袴の上からつけていたようです。奈良時代には今までの左前の打ちあわせから現在の右前の打ち合わせに改められたようです。また、支配者階級が身に着ける衣服の素材は高級な絹織物が、庶民には麻が使われていました。

平安時代(衣服から服装、初期の小袖へ)
平安時代には遣唐使が廃止され次第に日本独自の服装に変わっていったようです。
染色や織物の技術発展により多様性のある衣服が誕生しました。
男子は朝服から束帯(そくたい)へ、女子は唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)や女房装束(にょうぼうしょうぞく)と言われる晴装束(はれしょうぞく)を公家などが着用するのが一般的でした。
束帯、唐衣裳装束ともに袖部分は袖口の下を縫わない「大袖」を用い、これは現在の産着や長襦袢などに用いられる袖の形のひとつで、現在和服用語では広袖ともいわれます。特に女性の唐衣裳装束の下に着用した下着を白小袖とよんだようです。
また平安時代は京都の風土の影響や宮廷文化の発達により特徴のある装束があります。

鎌倉・室町時代(小袖のみの姿へ)
鎌倉・室町時代の衣服の中心は、武家男子の服装は衿がまっすぐに下がる直垂(ひたたれ)、女子は衣袴(きぬばかま)を用いました。武家階級勢力が増し政治の実権を握った時代だったこともあり、やがて戦闘などの目的に応じた実用的な服装へと変わっていったようです。
装束の表着を一枚ずつ簡素化し、袴や裳は省略され下着ではない、小袖のみの衣服に変わっていき室町末期には現在の着物の原型が出来上がったといわれています。この頃から「身八つ口」脇の所に開きのある着物になったようです。

安土・桃山時代
戦乱の平定した桃山時代には華やかな美術工芸品などで知られる桃山文化が生まれました。この時代は繍箔(ぬいはく)、摺箔(すりはく)、絞りなど緻密(ちみつ)な細工のものが多く、染織技術が飛躍的に進歩したことが小袖からもうかがえ、この時代に「辻が花染(つじがはなぞめ)」が染められるようになりました。
衣服に関しては男子は前時代に生まれた肩衣袴(かたぎぬばかま)が主流で女子は打掛姿(うちかけすがた)、腰巻姿(こしまきすがた)、また庶民には名古屋帯(なごやおび)が流行したようです。

江戸時代(小袖の完成形、着物と帯の姿へ)
江戸幕府は徳川家康により開かれ約300年間続いた時代で、鎖国の厳しい封建社会でしたが、庶民階級が経済、社会面で勢力を発揮し町人文化が栄えた華やかな時代でもあります。身分によって着物の素材や色に制限がかけられ豪華な着物を着る商人がいる一方庶民は「四十八茶百鼠」と呼ばれる色目の着物しか着ることが出来ませんでした。
元禄期には元禄文様と呼ばれる明るい色調で金糸が多く用いられた華やかな小袖などが作られ日本の代表的な友禅染も開花しました。この頃には現在の着物とほとんど変わらない形の小袖が生まれ、小袖が完成した時代ともいわれています。
また、江戸時代後期には帯締め、帯揚げを用いた「お太鼓結び」をするようになりました。

明治時代(和装と洋装)
明治維新によって大きな変化があった時代です。開国によって他国の文化が伝わり生活様式、服装様式が急速な欧米化が進みました。
宮中の礼服は洋服となり、それによって上流社会の欧米化が進み和洋折衷の服装となっていきました。高価な洋服に手の届かない一般人は和服にブーツや和服の上にコートを羽織るようなファッションを楽しんでいたようです。
この頃の礼服として男子は黒羽二重五つ紋付羽織袴(くろはぶたえいつつもんつきはおりはかま)で女子は黒や色無地の縮緬五つ紋付裾模様下襲(ちりめんいつつもんつきすそもようしたがさね)に丸帯が用いられていました。

昭和・平成~現在
現在の日常生活では洋服が中心となっていて、着物を着る機会は少なくなっています。
一般的に着物は晴着という感覚が強く結婚式などの特別なセレモニーやお葬式などのフォーマルウェア、礼服として用いられる事がほとんどです。
日本には昔から伝わる、お正月、成人式、七五三などの着物にふさわしい伝統や文化が多くあります。
入学式、卒業式、同窓会、習い事、夏祭り、七夕、観劇、ショッピング、お茶やお花、踊り、着付けなどの習い事で着物を着る機会を積極的にみつけ着物を着てみませんか。

日本の民族衣装である着物は日本人の体型、顔立ちによく似合います。
洋装が一般的になった現代だからこそ和装の文化に触れる事を是非おすすめします。